拙著『社会的ジレンマの処方箋』を出版したのが今から二十一年前の二〇〇三年,京都大学から東京工業大学に助教授として赴任して二年目の秋であった。当時の筆者は学術界,そして一般の世間における世論・論調に決定的な支配的影響を与え,それを通して巨大な公的被害(すなわち,外部不経済・社会的費用)をもたらし続けていた「主流派経済学」あるいは「新古典派経済学」に対抗しうる理論的フレームワークとして「社会的ジレンマ」なる理論的構成概念に大いなる期待を寄せていた。社会的ジレンマ理論そのものが,主流派経済学・新古典派経済学が公益上の巨大被害もたらしているということを明確に数理的理論的に論証してみせるものであったからだ。
したがって,最低限の知性と一定の良心を持つ者達がこの理論を理解すれば,世に害悪をもたらし続けている主流派経済学・新古典派経済学の反社会的な力を僅かなりとも削ぐことができ,この世界は確実によきものへと改善されていくであろうことを確信していた。筆者はそうした確信を,行動計量経済学を基本とした学位論文を京都大学で取得した直後に留学したスウェーデンのイエテボリ大学心理学科での心理学者
達との数々の共同研究を通して持つに至った。そしてスウェーデンから帰国して以降はその確信の下,社会的ジレンマに関わる様々な理論的実践的な研究を推進した。
本書はそうした当時の諸研究をとりまとめたものであった。そして,それは筆者がその後出版した各種の著作における一作目にあたる文字通りの「処女作」としてとりまとめられ,出版されたものであった。
筆者はこの「処女作」にとりかかった当初,本書を通して主流派経済学の欺瞞を明晰に確証してみせるのだという思いを強く持っていたのだが,本書執筆を進めるにつれてそのポテンシャルはただ単に経済学の欺瞞を明らかにするという程度のものに留まるものではないという思いを次第に強くしていった。そして最終的に筆者は,次の結論を導いた。
「社会的ジレンマ解消のために最も必要とされているのは,人々の “公共心”の活性化である」
(中略)
なぜ社会的ジレンマが広大な意義を持ち得るのか―――それは平たく言えば畢竟,「社会における人間同士の協力の大切さ」を表現するものであるからに他ならないからだ。 我々「人間」は「協力」するからこそ生物としての「ヒト」を超えた,人格と尊厳を兼ね備えた「人間」となり得る。
だから社会的ジレンマの「処方箋」を考えんとした本書は,その入り口において社会的ジレンマという客観性の重要性についての最低限の理解を示す社会科学者ならば何人たりとも否定することのできない「ゲーム理論」という数理的枠組みを使いながらも最終的には,人間が人間として求められる最低限の人間性を取り戻すために我々は一体どう生きれば良いのかをという極めて基礎的かつ汎用的な問題を問うものとなっている。
その意味において,本書は二十年以上前に書かれたものであるものの,今もなお,その有効性は何ら毀損してはいないと言い得るものとなっている。
ついては是非,本書にそれぞれ様々な角度から本書に辿り着いた読者各位にはご関心の部分だけでも,そして望むらくは当時行った数々の心理実験データの一つ一つをご鑑賞いただきながら本書全体をゆっくりとお読みいただきたいと改めて思う。
なぜならそれがやはり,我々自身と我々の周りの者達の「協力」を多かれ少なかれ促し,それを通して我々の社会を「倫理的社会」へと僅かなりとも近づけると同時に,我々を本来有るべき人間の本来的な姿へと僅かなりとも導く帰結をもたらし得るに違い無いからだ。
それこそが筆者が本書出版時に密かに抱いていた確信であり,今もなおその確信の度は何ら褪せてはいない。
本書は,そうした確信に基づいて筆者が持つに至った本書を当時のままの姿で復刊したいという願いを,経営科学出版の関係各位が聞き届けていただけたことがきっかけとなって,こうして復刊できたものである。
復刊にあたっては初版出版の出版社であったナカニシヤ出版に全面的にご協力いただいた。そして何より本書表紙をデザイン頂いた,現代美術アーティスト・彫刻家の谷口顕一郎氏にも,配色や紙質含めて全てそのまま復刻することをご快諾いただくことができた。筆者にとって深い思い入れある処女作としての本書をこういう形で復刊できたことを,筆者は大変に感慨深く,心から有り難く感じている。
ついてはご協力頂いた関係各位を改めてここに記し,心から深謝の意を改めて表したいと思う。
2024年 2 月28日 京都紫野の自宅にて
藤井 聡